漆と日本人

「日本の漆芸」世界との交流の中で

日本は漆の国と呼ばれる事があるが、これは中国が磁器の国と呼ばれる事と対をなしている。

漆芸は原材料として漆の木から採取される漆液を使って表現した芸術と定義すると世界の中で少ない国しかそれを作り出していない。中国、朝鮮半島、日本、ベトナム、カンボジア、タイ、ミャンマー、ブータンなどである。 

しかしあらゆる自然塗料や化学塗料で表現された塗料芸術を考えると広く世界中に存在する。

日本の漆芸は、歴史的に関係する国々からどのような影響を受けてきたのだろうか。そしてどこに特徴が有るのだろうか。歴史と技術の観点から考察をする。

1. 縄文時代の漆芸

9000年を超える漆製品が北海道の函館市から出土するなど日本の漆芸は長い歴史を持つ。日本人は漆の樹液を木から採取し、精製をして、顔料を入れた色漆を作るなど今の日本の漆芸技法と変わらない技法を獲得していた。これらは縄文の多くの遺物が証明している。

この時代の日本の漆芸は中国大陸や朝鮮半島の漆芸と関係は薄く、独自な技法で発展を遂げていた。

漆の樹液が温度と湿度で固化する事を山の中で発見した縄文人は有益な素材として木を管理し、採取、使用していた。遺物は芸術作品としての価値を持ち、さまざまな物が出土する。

以下のような4つの領域で漆の樹液を使いこなしていた。

 接着剤     矢尻と矢柄を繋ぐ、壊れた土器を接着、修復

 塗料      土器、木の器、編み籠などの内外を塗る

 造形素材    漆に土、木の粉を混ぜた粘土状の物で造形をする

 絵画材料    朱漆、黒漆で渦巻き模様などを描く

2. 弥生、古墳、飛鳥時代の漆芸

稲作農耕、青銅器、鉄器を持った大陸、朝鮮半島の人々が日本に移り住み起こした文化である。

漆製品が縄文時代と比較して極端に少ない事は、渡来人があまり漆芸文化を持っていなかったことがわかる。

3. 奈良、平安時代前期の漆芸

この時期の文化芸術は色濃く中国大陸と朝鮮半島から強い影響を受けた事が遺物や伝世品の中から読み取る事ができる。 

日本はそれらの技法を取り入れ、独自のスタイルを生み出していく。

「鈿螺」  木地や塗り面に貝の殻を切り抜いた模様を象眼する
日本名 「螺鈿」  薄貝(青貝)、厚貝 

「平脱」  金属の板金を切り抜き、漆面に貼り、漆塗り、研いで仕上げる
日本名 「平文」

4. 平安時代後期の漆芸

日本が創始した蒔絵技法が完成する。

「蒔絵」 漆で絵を描いて 金粉を蒔き、塗り込んでから研ぎ、仕上げる

金粉(金塊をヤスリで粉にする)を細かく作ることができずに粗いために、暈して蒔き、粗密で表す研ぎ出し蒔絵技法が完成する。

その前の時代の漆芸作品の模様は左右相称であったり、全面に満遍なく絵をつける意匠の中国様式であったが、研ぎ出し蒔絵による技法世界は空間を大胆に空ける日本的な図案展開に変わっていく。  

5. 鎌倉、室町時代の漆芸

蒔絵技法は武士階級の豪快さの中で、高く盛り上げて金粉を蒔く「高蒔絵技法」や全面を金とする「金地技法」が完成する。

中国からの漆芸技術が日本の技法に変わる。  

「堆朱」は中国名「剔紅」であり、朱漆を塗り重ねてその面を彫り、塗りの 断面を見せる。 

「堆黒」は中国名「剔黒」であり、黒漆を塗り重ねて彫る。

これらは日本の鎌倉 室町時代に多くの名品が日本に将来され、持っている事が権力の誇示(唐物崇拝)となった。 

需要が追いつかないために当時の日本人は簡単にできる技法を作り出す。

木を彫って薄く何回も漆を塗り重ねた物を「鎌倉彫」、「村上堆朱」と呼ぶ。

一見すると中国の「剔紅」「堆黒」と区別がつかない物も作られる。

「鎗金」漆面を針状の刃物で彫り、漆を入れ込み、金や金箔を蒔き込む。 

中国の「鎗金」は鋭い細線の集積だが 日本は刀を工夫し、点、太い線、抑揚ある線を彫り込み、漆を入れてから金を蒔く「沈金」技法を作り出す。

この時代、蒔絵技法は中国に渡り、金箔を粉にした金粉を蒔く描金技法が生まれる。

6. 桃山時代の漆芸

蒔絵技法は金粉の製造が格段と進歩し、細かな金粉を蒔き、上に漆を塗り込まず、固め漆のみで定着する平蒔絵技法ができる。建築物にも蒔絵を施すことが可能になり、建築の内面を飾る高台寺蒔絵などが流行る。この時代、ヨーロッパのキリスト教の聖職者が日本に来て、この平蒔絵の金の輝きと黒色はキリスト教にとっては聖なる表情であり、海路の途中のインドの螺鈿とを合わせて、

注文し、ポルトガル、スペインに持ち帰る。西洋の宗教、生活で使うものであり、用途も、形も、図案も独特のものである。これを南蛮漆器と呼ぶ。

黒漆と金色、そして貝の輝きの豪華な対比は、ヨーロッパに輸出され一大ブームを巻き起こす。

7. 江戸時代の漆芸

スペイン、ポルトガル対オランダ、イギリスは日本でも交易権を争い、スペインとポルトガルは敗退をしていく。

徳川幕府は、最初平戸でイギリスとオランダとの交易をするが、オランダ一国に絞り、長崎の出島を通して交流を重ねていく。先の時代の全面を飾る華やかな明るい南蛮蒔絵に対して、オランダは金蒔絵を少しにして、大胆に黒色の面を生かす写実的な世界を好み、紅毛漆器と呼ばれる物を作らせてヨーロッパに運んだ。ロッテルダムに船がつくと、欧州の貴族階級が争って購入をして、自分たちの生活に取り入れていく。宮殿の装飾にラックキャビネット(漆芸の間)と呼ばれる部屋を作ることが流行する。

全く需要が追いつかないために、イタリア、ドイツ、オランダ、フランス、ベルギー、イギリスで塗料を使った蒔絵風の家具や調度を作り出すこととなった。琥珀や貝殻虫(ラック虫)の塊をアルコールで解いて塗り込む物であり、ラッカーの語源となる物であった。 イギリスは日本からの輸入が途絶えると、中国製の蒔絵を発注して、本国に持ち帰り、広東蒔絵として欧州に売り込むこととした。この広東蒔絵は日本から伝わった描金技法による物である。

その中でも需要が追いつかず、イギリスはジャパニングと呼ばれる物を作り出し、各国に輸出をしていく。1688年オックスフォードで出版されたStalkerとParkerの『Treatise of Japanning and Varnishing(ジャパニングとワニスの技法論)』 には、日本の蒔絵がいかに素晴らしいかを解説し、自分たちの塗料を使っていかに似せるかの技法書である。付録としてついているデザイン集は全て中国様式であることは、来歴を物語っている。日本でヨーロッパでは日本の漆器はジャパンと呼ばれて好評を博されていると語られるが、実際はこのイギリスが作った中国洋式の模倣漆器をジャパンと語り、イギリスが売り出したのが真実である。

8. 明治、大正時代の漆芸

江戸末から明治にかけて各国で開かれた万国博覧会で、売れたのは漆器である。日本の文化が全て変革し、人々の生活の中にあった漆芸は、使われなくなっていく。和の文化が洋に変わる中で、その中で偽物産業が作られるほど欧州で惚れ込まれていた日本の蒔絵は、輸出産業のトップとして、位置付けがなされる。漆産業を担っていた人にとっては、新たな大きな需要ができたのである。マーケットが拡大するにつれ、日本各地の漆芸産地も活気が戻ってくる。

明治政府が各国の持って行く贈答品は菊の紋章のついた蒔絵の箱であり、現在各国の王室や博物館、美術館に名品が飾られている。

東京美術学校はそれらの指導者養成所として漆芸、金工、木彫、日本画の4領域で1887年に開設される。明治維新を成し遂げたのは日本の漆産業の力なのである。薄貝の裏に伏せ彩色をした長崎螺鈿の箱や家具は人気が高く。数多く輸出され、今も使われている。

大正に入り、欧州での日本ブームがジャポニズム運動となり、アールヌーボーからアールデコと変わる中で、日本の漆芸の世界も大きな影響を受ける

9. 昭和時代の漆芸

日本が連合国軍の占領下にあったのは、1945年(昭和20年)から1952年(昭和27年)までの7年間であり、1947年からの輸出用の日本製品には「MADE IN OCCUPIED JAPAN」と登録商標をつけることになっていた。この中で金属をベースにした漆器は蒔絵や螺鈿、色漆で装飾されて、食卓を彩るもので、現在も人気があり、高い価格で取引されている。

10. 平成、令和時代の漆芸

このように日本の漆芸は縄文時代の独自の漆芸技法を基底文化とし、その上に中国から伝来した技法を作り替え、日本独自の蒔絵技法を駆使して発展してきた

現在日本が漆芸の国として評価されているのは、各時代の名品が残されているからである。 

また現在も日本の漆芸産地で漆器としての日用品が作られ、各大学機関で幅広く教育がなされている事からも今後の発展が期待されている。